石州勝地半紙の歴史

石州勝地半紙の歴史

  • 2018.11.30 update
  • 石州勝地半紙の歴史

江の川に面した桜江町は、交通の要衝として栄え、室町時代には『桜井の荘』という地名で、

相当量の紙が漉かれ流通していたと言われております。
江戸時代に入ると浜田藩(現・桜江町市山)と津和野藩(現・桜江町長谷)が混在し、

両藩の特産品として石州半紙が盛んに生産され、『江戸時代の女性紙漉職 / 河野徳吉(著)』によると、浜田藩では「石州浜田半紙」と市山村(現・桜江町)の名を冠した「石州市山半紙」の2つの半紙を漉き、江戸や大阪市場に蔵紙として供給されていたが、市山半紙は質の優秀さから、藩は特別扱いの上納品としていたと記されています。

 

津和野藩領の長谷村(現・桜江町)や日貫村(現・邑南町)でも、藩の肝煎りで上質な半紙の生産に

取り組み、石州半紙の主要産地として知られていきました。

 

明治・大正時代には盛んに石見製紙品評会が開かれ、石見地方(島根県西部)で最盛期には6,400軒もの紙漉き職人の頂点を目指して技術の向上に努めたと言われ、長谷村、市山村、日貫村は上位入賞者を常に輩出するほどの生産地でありました。

長谷村勝地を含めた、現在の当工房がある「風の国」周辺の村々で盛んに漉かれた半紙を総称し、

石州半紙の中でも『石州市山半紙』と言う名で出荷されていました。

 

※「和紙十年/柳宗悦(著)」では、「常々石州半紙を好む私は、特に依頼して「工芸」のために用紙を準備して貰つた。第四十一号から四十八号に至る袋綴の紙は、純楮の「石州」であつて、質としては上々の品であつた。その持味の黄味が自然の発色であるのは既に名高い。恐らく石州半紙が大版で、月々の出版物のために漉かれたのは之が嚆矢ではなかつたらうか。出来たのは市山である。」

 

しかし、名声を高めた市山半紙も戦後急速に紙を漉く軒数が減り、高度経済成長期における和紙の需要の低減により、紙漉き業を廃業する家が増え、昭和40年代にはとうとう市山では和紙を漉く家が1軒もなくなってしまいました。
当工房周辺でも紙を漉く家が341軒あったとの事ですが、市山と同じように、職人がどんどん廃業し、伯父である「原田宏」の工房のみとなってしまいました。

*「勝地」というのは、現在の桜江町長谷地区にある集落の名前で、伯父の工房のあった場所です。

 

昭和44年に、石州半紙が国の無形重要文化財への登録の働きかけの中、「半紙を漉いていない」という間違った情報により登録に漏れてしまい、その後、新たに集落の名前である「勝地」を冠した「石州勝地半紙」と名乗る事になった経緯があります。

その伯父も数年前に引退し、29年前から勝地半紙の後継者として甥である私が勝地半紙の技術を踏襲し六代目として、山間部で唯一の紙漉きを続けております。

 

注:柳宗悦(やなぎ むねよし 1889年(明治22年)3月21日 – 1961年(昭和36年)5月3日) は、

民藝運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者。民藝の父として知られ、工芸の世界に多大な影響を与えた。

和紙を布でも皮でもない第三の素材として
世間にもう一度問うてみたい。

New Material Project

紙布

information
この地域では古くから紙布という、和紙を細く裁断し、撚って糸にし、布に織るという「紙布」の文化がありました。
麻が高く手に入れることが困難な時代に、紙布は、蚊帳や畳の縁、野良着、着物の反物、コタツ布団など日常のものとして多く使われていました。
ジーンズよりはるかに丈夫な紙布。
この紙布を近い将来、商品化したいと思っており、糸を作る段階まで来ております。

和紙でできた猫ハウス・猫ベッド

information
和紙は漉き重ねると、同じ厚さの木材より強度が高いという、和紙という言葉からは想像がつかない特性があります。
その厚く漉き重ねた和紙で猫ハウスや猫ベッドをつくりました。
骨組も一切入っていない自家栽培の石州楮100%の商品。
何より、化学的な糊やボンドなどは一切使用しない昔ながらの製法で作っております。
ペットというより、家族の一員である猫ちゃんに優しい和紙製です。
表面が汚れたら、表面だけを張り替えるリペア可能な商品ですので、一生ものです。