石州勝地半紙の歴史

江の川に面した桜江町は、交通の要所として栄え、室町時代には『桜井の荘』という地名で、相当量の紙が漉かれ流通していたと言われております。

江戸時代に入ると浜田藩(現・桜江町市山)と津和野藩(現・桜江町長谷)が混在し、両藩の特産品として石州半紙が盛んに生産され、『江戸時代の女性紙漉職 / 河野徳吉(著)』によると、浜田藩では「石州浜田半紙」と市山村(現・桜江町)の名を冠した「石州市山半紙」の2つの半紙を漉き、江戸や大阪市場に蔵紙として供給されていたが、市山半紙は質の優秀さから、藩は特別扱いの上納品としていたと記されています。

津和野藩領の長谷村(現・桜江町)や日貫村(現・邑南町)でも、藩の肝煎りで上質な半紙の生産に取り組み、石州半紙の主要産地として知られていました。

明治・大正時代には盛んに石見製紙品評会が開かれ、石見地方(島根県西部)で最盛期には6,400軒もの紙漉き職人の頂点を目指して技術の向上に努めたと言われ、長谷村、市山村、日貫村は常に上位入賞者を常に輩出するほどの生産地でありました。

 

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大正時代、長谷村勝地を含めた、現在の当工房がある「風の国」周辺の村々で盛んに漉かれた半紙を総称して、石州半紙の中でも『石州市山半紙』と言う名で出荷されていました。

※「和紙十年/柳宗悦(著)」では、「常々石州半紙を好む私は、特に依頼して「工芸」のために用紙を準備して貰つた。第四十一号から四十八号に至る袋綴の紙は、純楮の「石州」であつて、質としては上々の品であつた。その持味の黄味が自然の発色であるのは既に名高い。恐らく石州半紙が大版で、月々の出版物のために漉かれたのは之が嚆矢ではなかつたらうか。出来たのは市山である。」

 

 

しかし、名声を高めた市山半紙も戦後急速に紙を漉く軒数が減り、高度経済成長期における和紙の需要の低減により、紙漉き業を廃業する家が増え、昭和40年代にはとうとう市山では和紙を漉く家が1軒もなくなってしまいました。  当工房周辺でも紙を漉く家が341軒あったとの事ですが、市山と同じように、職人がどんどん廃業し、伯父である「原田宏」の工房のみとなってしまいました。

*「勝地」というのは、現在の桜江町長谷地区にある集落の名前で、伯父の工房のあった場所です。

昭和44年に、石州半紙が国の無形重要文化財への登録の働きかけの中、「半紙を漉いていない」という間違った情報により登録に漏れてしまい、その後、新たに集落の名前である「勝地」を冠した「石州勝地半紙」と名乗る事になった経緯があります。

その伯父も数年前に引退し、20年前から勝地半紙の後継者として甥である私・佐々木誠が勝地半紙の技術を踏襲し六代目として、山間部で唯一の紙漉きを続けております。

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